北広島町雄鹿原診療所 所長
東條環樹


   

老衰死とは?

老衰の定義

 老衰は,「高齢者でほかに記載すべき死亡の原因がない,いわゆる自然死」と定義され,「安らかな最期」「大往生」と言い換えることもできます。本来,多くの日本人が望む自らの終末像ではないでしょうか。しかし,厚生労働省発表の人口動態統計(2014年)1)では,老衰は死亡原因の5.9%に過ぎず(),ここ十余年間は医療を提供する場である病院・診療所での死亡が約8割を占めています()。加えて,多くの医療専門職が家族に老衰と伝えることに戸惑いを感じ,死亡診断書の直接死因の欄に老衰と記すことを躊躇します。これらのギャップが何から生じているかを考えていくと,医療のみならず,日本全体が抱える問題が浮き彫りになってきます。

「死」のとらえ方

 病院で死ぬことがあまりに普通になってしまった現在,国民は死という事象に実感が持てず,非日常のものとして認識してしまっています。また,未知のものとして忌み嫌い,話題に上がること自体を避けてしまってもいます。人口動態統計によると,第二次世界大戦終了後は8割であった在宅死が,経済発展や社会構造の変化などにより徐々に減少し,1976年に病院死と逆転しました。現在は病院死8割で推移しており,在宅死はわずか1割強に過ぎません()。
 本来は自然な人間の営みである生・老・病・死のすべては,それぞれが生活の場である自宅から離れたところで完結し,老いたヒト,病んだヒト,死にゆくヒトと日常的に触れ合うことはありません。しかし,それは極めて不自然なことではないでしょうか。
 これは,医療専門職にも言えることです。科学としての医学は大きく進歩し,病気の原因や有効な治療法が明らかとなってきました。これにより,医学的・医療的な視点からのみで物事をとらえてしまったり,本来自然な終末像であるはずの老衰に対する居心地の悪さから思慮なく治療に傾いてしまったりしているのが現状です。
 自然経過として死にゆく過程を見せることで,むしろ命(=生)の尊厳を実感でき,残された家族が現実を受け入れる導きとなります。それらを医療者として適切に提供することが,これからの医療専門職には求められます。その中で,看護職が担うべき役割はますます大きくなっていくでしょう。「死」を論じるに当たっては,医療的な知識や技術はもちろん,自らの生死感を確立する努力と高齢者の尊厳を守るという熱い思いが必要です。

 

老衰死は特別なのか?

がんと老衰の共通点

 老衰死は,その定義に従えば「ほかに死亡の原因がない」「自然死」ということになりますが,それは稀なことなのでしょうか。日本人の死亡原因の第1位はがん(悪性新生物)で約3割,第2位は心疾患,第3位は肺炎,第4位は脳血管疾患と続きます()。自然死の対極にあるとも言えるがんにより3人に1人が亡くなる訳ですが,これらに共通点はないのでしょうか。
 実は,これらの4大死亡原因のいずれも高齢者が罹患する疾病で,かつ診断法や治療法が今ほど発達していなかった一昔前は老衰とされていたかもしれない病態なのです。何の健康問題もなく元気に過ごせる若者とは異なり,高齢者は大抵,複数の疾患を持ち,それらと共に社会で生活し,家族の一員としての役割を担い,そして老いていきます。
 この時,医療専門職が陥りやすい間違いは,「肺がんのAさん」「糖尿病と高血圧のBさん」「脳梗塞後遺症で半身麻痺のCさん」という,疾患名を冠した個人識別法です。これは,「疾病モデルか,生活モデルか」「病気を診るか,病人を診るか」とも言い換えることができるでしょう。急性疾患や治癒可能な病気であれば,疾病中心のいわゆる「疾病モデル」「病気を診る」でよいのですが,慢性疾患や改善が望めない状況になった時には,「生活モデル」「病人を診る」視点から,いかにその人がその人らしく過ごせるかに心を砕くべきです。

尊厳ある最期を老衰として迎える医療

 筆者は,長年高齢者の終末期ケアに取り組んできて,この考え方は安定期(慢性期)のみならず終末期にこそ適応されるべきと感じるようになりました。極論かもしれませんが,どのような疾患を持ち,どのような経過をたどろうとも自然な死である「老衰」に近づける,そのための医療があってもよいと思います。
 筆者はこれを,本人・家族に「過剰な医療を避けるための最小限の医療」「生活者として過ごすための適切な医療」と説明するようにしています。がんの終末期に伴うことがある癌性疼痛は,当然適切な薬剤選択を行い症状緩和に努め,心不全では病院外でも(在宅)酸素療法を実施して生活活動度を維持するなど,生活の質を改善するための医療行為は積極的に行うべきです。一方で,本人の生活の質(QOL)や,生活活動度(ADL)を低下させる可能性がある医療行為については,吟味を重ねる必要があります。
 医療機関での医療であれば当然と思われている処置,行為(末梢静脈点滴や膀胱カテーテル留置)であっても,それを在宅や高齢者施設で実施する際は改めて検討するべきです。医療機関では「患者」でも,その人が施設に戻れば「生活者・入所者」ですし,自宅に帰れば「家族」なのです。深慮ない医療者が提供する根拠のうすい医療行為で,せっかくの「生活者」や「家族」が「患者」になってしまう。これは,現在日本中で起こっている悲しい現実です。
 「できることをあえてしない慎みを持つ」ことで,尊厳ある最期を老衰として迎えるという発想の転換(mindset)は,医療者のみならず国民全体に理解されなければなりません。

 

老衰の経過

 これまで述べてきたように,老衰・老衰死は病気(疾患)ではありませんし,逆に病気があったら自然死である老衰を迎えられないということも事実ではありません。ここでは,主にがんと非がん疾患の代表である脳血管疾患後遺症,認知症について述べたいと思います。

がん
【急変・悪化時への対応】

 まず,「がん患者が老衰?」と疑問を持たれる人は多いと思いますが,実際は,適切で過不足なく医療が介入することで自然死に近い状態にすることが可能ですし,それが理想でもあります。がんにもさまざまな種類,罹患部位があるのですべて同一には扱えませんが,多くの場合,亡くなる1カ月前まではある程度の身体機能が保たれており,常に介護が必要となる寝たきり状態になるのは最期の1週間程度です。
 ここでカギとなるのは,最期の1カ月の間に急速に状況が変化し,さまざまな症状が出現し得るということです。一般にがんの終末期ケアで,図らずも救急搬送や医療機関入院をしてしまう要因として,「急に状態が悪化したため」「急激な変化を家族が受け入れられなかったため」などが多く挙げられます。しかし,それらは回避することができないのでしょうか。
 筆者が考える解決法の柱は,「説明と理解・納得」です。多くの医療専門職(特に医師)は,長い医学部教育と臨床経験からひたすら疾病と戦い,治癒を目指すという思考パターンに凝り固まってしまっています。そして,医療提供の目的はひたすら生命(寿命)の延長であり,そこに「生活の質」「本人の平穏・満足」という視点は欠落しています。悲しいことに,その価値観は社会全体に広がってしまい,「1分1秒でも長生きを」が日本人の唯一の幸せの指標となってしまいました。しかし,人生のゴールである死が明らかとなった状況では,違うものさしを持つべきではないでしょうか。
 そこで重要なのは,医療専門職からの説明です。これから起こることを本人・家族に伝える地道なアプローチですが,注意すべきは,「いつの時点で」「誰に対して」「どのような言葉で」伝えるかということです(もちろん,非言語的なコミュニケーションも重要です)。本人・家族にとっては「縁起でもないこと」かもしれませんが,がん患者は終末期が近づくほど急に悪化していきます。医療者から説明する前にそれらの事象が起これば,本人・家族は動揺し,精神的ストレスを募らせる「急変」「悪化」ですが,(一度で足りなければ)繰り返し説明することで「理解」が得られ,それらは通過点に過ぎなくなります。その通過点を平穏な気持ちで家族と医療者がともにたどっていくことで,「がんの自然経過はほぼ老衰死である」という家族の「納得」が得られていきます。
 ここで注意すべきことは,「説明」を医師のみの役割としてしまい,他専門職がすべてその責を放棄している現代の風潮です。筆者の考えでは,それは各々の専門職の怠慢に過ぎません。家族が希望する説明は,高度で専門的で細かい医学的な病状ではなく,生活者として,あるいは肉体的のみならず精神的な状態に関する内容であることがほとんどです。これらはむしろ,看護職,介護職が得意とする領域であり,他職種がそれぞれの専門性を生かした多角的なアプローチをすることで,本人・家族の理解と納得は形成されていきます。

【がん特有の症状への対応】
 もう一つ重要なこととして,がんの終末期には,本人と介護者,そして医療者を悩ませる特有の症状が随伴するという事実が挙げられます。主なものとしては,癌性疼痛,せん妄,食欲低下,倦怠,傾眠があります。これらは,迅速に対応し,適切にコントロールされて当然の病態です。現在の浅い意味での「緩和ケア」は,これらの症状をいかにコントロールするかという議論とアプローチに終始している感があります。
 筆者の考えでは,それらの症状コントロールは深い意味での「緩和ケア」を提供するための手段であり,決して目的(ゴール)ではありません。在宅(あるいは施設)で愛する肉親が衰え,死を迎えようとしている時,そばで見守る家族のつらい気持ち(喪失感)を和らげることはできませんが,適切な説明を繰り返し,納得を得ながら,きめ細かに症状コントロールをすることで不要な不安感から解放することはできます。全知全能をかけ,医療専門職チームが総体として提供しようと努めなければなりません。

脳血管疾患後遺症

 脳血管疾患後遺症にもさまざまな状態と程度がありますが,移動能力の低下と嚥下機能障害に絞って述べたいと思います。

【移動能力の低下への対応】
 脳血管疾患後遺症としての片麻痺と共に高齢者が加齢していくと,ある変曲点を迎えたところで急速に身体機能,生活機能が低下していきます。これは,転倒・受傷などのアクシデントや,呼吸器感染症,尿路感染症,嘔吐下痢症などの罹患の契機になったりします。できる限りその人らしく暮らしてもらうために,機能維持のリハビリテーション,生活機能リハビリテーションは非常に重要です。
 具体的には,生活者として最後まで残る日常生活作業の「食事」「排泄」「保清」は,なるべく介護者の世話にならない,自分でできる工夫をしていくことを目標にします(これはがんの終末期でも言えることで,まさに「がんリハビリテーション」の目的はその人らしく最期まで尊厳を保って生活してもらうことです)。そして,ある程度の日常生活活動度を維持することが,転倒・受傷や感染症罹患のリスクを下げるよいサイクルを生むことは,皆さんも日々実感されていることでしょう。

【嚥下機能障害への対応】
 一方の脳血管疾患後遺症としての嚥下機能障害は,現在社会的にも大きな話題となっている胃瘻造設と誤嚥性肺炎に直結しています。冒頭で日本人の死亡原因の第3位は脳血管疾患ではなく肺炎であると述べましたが,これは抗菌剤の開発遅延や耐性菌の出現などではなく,まさに人口構成の変化,超高齢化社会を迎えた結果なのです。嚥下機能障害のある高齢者では,もちろん食形態の工夫や食事介助での注意,口腔ケア,嚥下機能訓練を検討し提供するべきですが,それでも誤嚥のリスクをゼロにすることはできません。
 ある程度嚥下機能が低下してきた時,リスク回避を優先し「何事も起こさないこと」を選択すれば,経口摂取自体を諦めることになります。しかし,それが老衰に代表される終末期の自然経過なのか,一時的な悪化なのかを冷静に検討して評価すれば,その後取るべき対応は異なってきます。また,終末期であればなおさら,本人の希望や家族の価値観も経口摂取を継続するか否かの結論を出すための大きな因子となります。
 例えば,明らかに終末期と思える状況で,本人が「たとえ誤嚥性肺炎で命が決まろうとも好物が食べたい」「好きな酒を味わえば思い残すことはない」と真剣に願い,それを家族も望んでいた時,果たして純粋に医学的な判断でそれを却下することが正しいことでしょうか。多くの医療専門職は日常の業務の中で悩み,かつ本稿を読んでいる間は賛同されるかもしれませんが,いざ目の前でそう懇願されたら,果たしてYesと言えるでしょうか。
 経口摂取,食事を味わうということは,単に栄養を体内に取り込むための手段ではなく,ヒトがヒトらしく生きるための尊厳そのものと言えます。その事実に対して,医療専門職はもっと謙虚でなくてはならないと思います。人間の長い歴史の中において,経口摂取が不能となった時が老衰であり,自然死だったはずです。口から食べられなくなった時がまさに天寿,それを受け入れてもらうためにも,本人・家族と価値観を共有し,尊厳を保つ最良の方法を探りながらのケアは,決して生を諦めるものではありません。
※誤嚥・窒息リスクを冒してでも経口摂取の継続を勧めたり,胃瘻造設や点滴処置を全否定したりするものではありません。

認知症

 認知症の自然史(自然死ではない)では,不慮の事故と認知機能の廃絶が起こります。

【不慮の事故への対応】
 認知症を背景とした徘徊や突拍子もない行動に対し,常識的な範囲での対応,リスクマネジメントは当然なされるべきですが,不慮の事故をすべて回避することはできませんし,残念ながらそれが死に直結することもあります。この時,筆者が家族に説明するのは「本人を責めない,自分を責めない,相手を責めない」ということです。特に,高齢者施設での定期的な家族参加のカンファレンスでは,必ず伝えるようにしています。
 不幸な結果となろうとも,それは認知症によるものであり,それらを防ぐために膨大な労力が費やされ,本人の日常生活の質が損なわれるような対応が,常態的に行われてしまうことはやはり避けるべきです。
 例えば,自宅で主たる介護者である妻が目を離した隙に夫が危険物を異食した,施設でたまたま鍵が開いていた扉から外出して徘徊し受傷したといった行動があります。これらがある程度許容され,家族も,専門職も,第三者も互いが叱責するのではなく,繰り返さないための検討材料として扱う文化醸成が必要です。

【認知機能の廃絶への対応】
 認知機能の廃絶によるもう一つの終末像は自発性の停止で,寝たきり状態化と摂食意欲の消失として現れます。寝たきり状態に関しては,脳血管疾患後遺症の移動能力の低下とほぼ重複しますので,ここでは摂食意欲の消失についてのみ述べたいと思います。

〈摂食意欲の消失とは〉
 食べたくても飲み込む機能が低下して経口摂取ができなくなる嚥下障害とは異なり,摂食意欲の消失はまさに「食べることに関心がなくなる」「食べることを忘れる」という状態です。目の前に食事と食器を並べても,それらに反応せず食行動をとらないステージになると「食事全介助」です。それでも咀嚼,嚥下反射が残存している期間は他者がうまく食事介助すれば経口摂取を続けることができますが,数カ月〜数年で終わりを迎えます。身体の仕組みは不思議なもので,この頃になるとちゃんと生理機能も衰えてきます。

〈不要な医療介入に対する理解〉
 食事全介助の段階で初めて家族に食べられなくなった事実を伝えると,ほぼ皆「食べられなくなったのなら点滴をしてください」と言います。一昔前ならば,「胃瘻でもつくればもう少し長生きできますか? また元気になれますか?」と言っていたかもしれません。現在でも,国民の医療信仰,点滴信仰は根強く,皆さんも,これに泣かされた経験を多かれ少なかれ持っているはずです。
 ここで医療専門職がしっかり理解しておかなくてはならないのは,過剰な補液は必ず苦痛を増し,自然で穏やかな死を迎えられなくなるという事実です。例えるなら,葉を落とし,今まさにゆっくり枯れようとしている老木に,実も結ばず葉も茂らないのは水分が足らないからだとジャブジャブ水をかけ,その挙げ句に根が腐ってばさりと倒れる,そんなイメージです。
 経験と知識に裏打ちされていない根拠と軽薄な正義感から,明らかに過剰な点滴を続け,全身浮腫,肺水腫,気道分泌物の増加による本人の苦痛,介護者の負担を悪びれることなく増大させている事例のなんと多いことか。不要な医療介入により老衰死がかなえられなかった嘆かわしい最期を目にするにつれ,国民以上に医療専門職(特に医師!)への教育,啓発が必要と痛感しています。

〈家族への説明と家族の選択〉
 筆者は,認知症の進行(悪化)を家族に説明する際,社会的問題行動が問題となる時期の「社会的負担」,更衣や排便尿失敗に対する介護が必要となる時期の「肉体的負担」,認知機能が廃絶して寡動となりその人らしさが失われていく時機の「精神的負担」というように,それぞれのステージで異なる家族のストレスを話します。その中で「食べることを忘れた時」については特に時間を割いて伝えます。
 認知機能が荒廃して食べなくなった時が肉親の天寿と思えるか,迷いがある時には,論語の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」の話もします。もし自分が判断能力も失い他者との交流もとれなくなり,唯一残っていたかもしれない食事の楽しみがなくなったとしたら,穿刺の不快感を伴い,いたずらに覚醒を促され,次々と痰がわき上がり,窒息感を覚えます。そして,吸痰による気道異物感が数分ごとに繰り返される点滴処置を受ける気になりますか? それにより,1分1秒寿命が延びることを望みますか? 冷静な判断ができる時点で,時間をかけて丁寧で聡明な説明を行えば,間違った選択肢を選ぶ家族はいません。医療者側は「医療の素人である家族に重要事項を決めることはできない」と思いがちですが,それを可能にするだけの量,質ともに厳選した情報を家族に与えれば十分可能ですし,逆に家族が選択できないのは医療提供側の怠慢でもあり,スキル不足でもあると言えます。

家族が老衰死を選択肢として考えられる看護を

 老衰の経過,自然死までの道のりは一つではなく,確固たるモデルケースがあるわけでもありません。しかし,医療専門職がそれぞれ自らの生死感を確立し,高齢者に対し謙虚な姿勢を保ち,自然死である老衰死について日々思いを馳せながら日常業務に当たることが重要です。最期を迎え,死亡診断書に老衰死と記載するかは医師に委ねるとして,亡くなりゆく人々にとって,そして看取る家族にとって,より平穏でよりポジティブな死に至る道は,すべての医療関係者が関心を持って自ら模索していくべきと考えます。
※人口動態統計の元資料となる死亡診断書の記載は,あくまでも臨床経過に基づくものであり,いたずらに老衰と記載することを勧めるものではありません。

 

本人・家族への精神的サポート

急変・悪化による家族の不安

 これから死に向かう本人,それを支える家族と接する際は,かなりの覚悟を必要とします(特に,緩和ケア,終末期ケアを提供する医療者の姿勢としては,時間軸を考えると点で「接する」より線で「支える・寄り添う」が適切だと筆者は考えています)。
 多くの人の最期を自宅で看取ってきた中で気づかされたことは,愛する家族が終末期を迎えて自宅療養を希望されても,それらが継続できなくなる最も大きな要因は家族側にあるということです。それまで安定していた病状が突然変化したり,苦痛が急に出現したりすると,家族は大きく動揺します。医療機関に入院中であれば,本人がナースコールを押すと医療者側に意志が伝わりますが,自宅ではそう簡単にはいきません。
 まず家族がその変化を目の当たりにし,苦しむ本人と会話し,医療者に伝えるか否かを悩み,緊張と遠慮と共に緊急連絡先に電話をします。俗に「何かあった時」という家族の不安が,まさにこれに当たります。そして,その募っていく家族の不安を目の当たりにした療養者(患者)は「これ以上自分が在宅療養を続けることは迷惑になる」と,在宅療養継続に終止符を打ちます。

予測される状況変化の説明

 実は筆者も,在宅療養にかかわり始めた時は,この重大性を十分に認識してはおらず,「何かあったらいつでも連絡してください」とだけ家族に伝えていました。連絡は24時間携帯電話で受け付け,その度ごとに丁寧な対応を心がけましたが,家族の不安,疲弊は日々募っていきました。その時,ある家族から「何かあった時と言われても,今の変化が連絡するべきものなのか分かりませんでした」と言われました。
 当時はがんの告知さえも賛否が分かれていた頃で,これから起こる状況変化を伝えることは,すなわち死に向かっていることを具体的に示すことにほかならず,自分の中でもそれは正しいことなのか悩んでいました。しかし,この言葉をきっかけに,積極的に現状の説明とこれから予測される状況変化を伝え始めました。これらは「悪い事実(bad news)の伝え方」と「インフォームド・コンセント」です。とかく忙しい病院などでは「インフォームド・コンセント」という名の下に,説明文書を一方的に読み上げてサインと捺印を貰うことが日常化しています。しかし,本人と家族の「理解と納得・合意」はそんなに短時間で得られるものではありません。長い時間をかけ,繰り返し情報と思いを共有するために働きかけ,互いを理解するよう努め,その過程で医療専門職もコミュニケーション能力を磨き,病めるヒトのココロにまで思いを馳せる姿勢を涵養(かんよう)していくこと,これが終末期ケアなのだと思います。

多職種連携でのアプローチ

 この働きかけは,多職種連携でのアプローチによってバランスがとれた強固なものとなります。医師が共有できる物理的時間には制限がある上に,いくら注意を払っても一面的な情報提供になってしまいがちです。看護師,ケアマネジャーなどが医師とは異なった立場と視点から働きかけることで,より良い形になっていくでしょう。家族の不安,悲しみ,身体的疲弊を常に把握しようと努める必要があり,死に向かっている本人とその家族を包括的にサポートするのが多職種でかかわるチームの責務です。
 提供側である医療専門職も慣れないうちは熱くなったり,動揺したり,ひどく悩んだりしがちです。しかし,真のプロフェッショナルとしては,常に正確な判断が迅速にできる冷静な精神を保たなくてはなりません。こちらの不安や動揺を本人・家族は敏感に感じ取ります。常に冷静に本人の状況を理解し,家族の心情・状態も把握し,自らが提供するべき医療的,心理的アプローチをイメージできる能力が求められます。

緊急時受け入れ先の提示

 特に,在宅で終末期ケアを提供する際は,レスパイトケアを常に考慮(準備)しておく必要があります。具体的には,緊急時に入院のできる在宅医療支援病院などの後方医療機関ですが,それらの取り組みが進んだ地域,施設では,ショートステイやデイサービスがその役割を担うこともあります。これらをあらかじめ提示することで,家族の不安感や閉塞感,切迫感を和らげ,緩い家族介護につながることをよく経験します。
 愛する肉親を自らが介護し,看取る覚悟をしていても,途中で気持ちが揺れ動き,葛藤するのが家族です。医療専門職には,それらをしなやかに受け止める心の余裕が必要です。これらを淡々と積み上げて「何事もない」終末期の時間を提供し,その結果として心安らかに家族と共に迎える自然な最期である老衰死は,決して敗北ではありません。

 


グリーフケア(お悔やみ訪問)

訪問のタイミング

 グリーフケアは非常に大切です。これは遺族のために行うべきと記載された文章を見かけることが多いですが,筆者は医療提供者,サービス提供者が自らの振り返り,スキルアップのためにするものでもあると考えています。時期として特に決まりはありませんが,残された家族が死後の事柄も片付き,精神的にも落ち着きが戻る,葬儀後2週間〜2カ月が適切だと言われています。あらかじめ連絡をして了承を得た上で訪問し,こちらも十分な時間と精神的な穏やかさを保って行くように心がけましょう。その際,宗教,宗派などにより違いはありますが,あいさつ,焼香やお参りなどをさせてもらうのが自然です。

遺族の思いを傾聴する

 すでに肉親の死を受け入れて,よい思い出として話してくれる家族がいる一方で,未だ深い悲しみに包まれ,涙に暮れている家族もいます。グリーフケアで特に必要とされる姿勢・技術は傾聴です。遺族が故人のことや病気療養中の介護について,まだその時点で思い出したくもないし語りたくもないという時には,それに従うべきです。
 しかし,このつらい気持ち,喪失感,虚無感を誰かに吐き出し,聞いてもらうことで自らの中で納得,消化していくというプロセスも存在します。遺族は時に悲しみを噴出させたり,場に暗く長い沈黙が流れたりします。実は,多くの医療専門職が,このようなギリギリな状況でのやり取りや感情の共有に慣れていません。家族を労いながら,つらい気持ちは共有し,肯定的(ポジティブ)な心情を引き出すことが本来の目的です。

医療専門職に対する批評,批判を聞く

 もう一つ重要なことは,医療専門職に対する家族からの批評,批判を聞くことができる機会はごく限られており,まさにグリーフケアの場が最適だということです。
 肉親の療養中は,医療専門職に対してどれだけ陰性の感情を抱いていても,(余程ひどい時は別として)それを表出することはありません。医療者側から見れば在宅で平穏に最期まで過ごせた遺族からでさえ,「実は終末期にはかなり不安があった」「いつも伝えられるのが冷静で正確な情報で一度くらい『大丈夫』と言ってほしかった」「訪問時に白衣を脱いで来られた時は寂しかった」など,まさに想定外の言葉をかけられることがあります。これらは,医療提供者と患者・家族という関係が外れたグリーフケアの場で,しかも「向学のために教えてください」と謙虚に頭を下げて初めて得られる貴重な情報です。
 それらを多職種で共有し,日常業務にフィードバックをかけチーム全体のスキルを上げようと前向きに取り組むことは,高齢者ケアをする私たちの使命だと思います。

時の流れによる心情の変化に寄り添う

 また,家族に受け入れてもらえるのであれば,複数回お話を伺うことも一つの方法です。当初は悲しみが主であってもしばらくたってようやく達成感を得るまでに至ったり,逆に後からじわじわと迷いや後悔が生まれてきたりすることもあります。
 筆者は地域の診療所勤務医ですので,看取りとなった後も多くの家族が外来患者として受診されます。折りに触れ,故人を偲ぶ時間,空間を共有できることは,やりがいを感じられると同時に逃げることができない,退路が断たれた状況とも言えます。そのようなプレッシャーの中でも,日々楽しく続けていくことは可能です。

 

おわりに

 老衰死は自然で平穏な人生の最期です。しかし,文化的,情緒的な裏付けがないまま医療が進歩しすぎた現在では,実現が難しくなっています。豊かで実りある終末期ケアを提供するには,高度な看護技術を持つのはもちろんのこと,熱い思いをコントロールする冷静さ,困難を受け止めるしなやかさ,本人・家族に寄り添う優しさを備えた看護師である必要があります。そして,その実践を通じて国民の生死観が醸成され,看取りの文化が再興することが日本全体を幸せにする一助になると信じています。

引用・参考文献
1)厚生労働省:平成26年人口動態統計,2015.

 

出典:臨床老年看護 vol.23 no.3 2016年5-6月号 ※筆者の所属・役職は執筆当時のものです。
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