介護の誇り



閉塞感を打破・未来に繋がる介護を創る珠玉のエッセイ


はじめに〜今こそ介護に誇りを持とう

 近い将来、介護ロボットが人に代わって、介護を行うことができるようになるのだろうか。
人工知能を持ったロボットが、人の動きを見ながら、ロボット自身が考えて、状況に応じた対応ができるようになるのだろうか。
 そうだとしたら、それはそれで良いことだ。そのことを否定すべきではないと思う。感情のないロボットに介護されるのはどうなのかという意見もあるのだろうが、人間には感情があるからこそ、喜怒哀楽の感情に寄り添うことができる反面、負の感情をそのまま利用者に向けて、不幸をつくり出すケースも決して少なくはない。プロ意識のない介護者の顔色を窺いながら介護を受けなければならないのであれば、感情のないロボットに、自分の身体を委ねた方が良いと考える人もいて当然だ。
 ロボット相手なら、人に見られて恥ずかしいことであっても、恥を感ずる必要もなくなる。
同性介護などという配慮も必要なくなる。知識や技術の教育も必要なく、プログラミングだけで、人の行為のすべてを支援できるロボットがあるとすれば、こんな楽なことはない。人手不足も補える。少子化も超高齢社会も、どんな社会情勢とも無縁に介護力は確保できるのだから、実用化できるものなら、そこにどんなにお金をかけても良いだろう。
 そして、人と同じことができる介護ロボットと、介護の専門職である人間が、選択肢として競合するということが実現できたら、それだけで介護サービスの質は飛躍的に向上するのかもしれない。だから、人に代わることができるロボットができるというなら、その完成を急いでほしい。テクノロジーを最大限まで磨いて介護の現場で実用化してほしい。
 しかし、現時点で僕には、人に代わることができる介護ロボットを想像することは難しい。
それは、自動運転の車をつくることより、はるかに困難なことではないだろうか。なぜなら人間は、必ずハンドルを切った方向に向きが変わるわけではないからだ。ハンドルを切れない時もある。ハンドルに手が届かないことすらある。車ならば、燃料が切れれば止まるだけだが、介護ロボットの燃料が切れたら、死んでしまう人がいるかもしれない。入浴支援の途中で燃料が切れて、浴槽の中でのぼせて死んでしまう人がいるかもしれない。移乗途中で燃料が切れたら、落下して死んでしまう人がいるかもしれない。部品の故障・欠損によってどんな動きが起こるか想像もつかない。
 そんな不確実なものを待っているほど悠長にはしていられないので、僕達は現実を見つめながら、対人援助としてふさわしい介護サービスをつくるのみである。そして、介護ロボットに頼らない介護の質、介護ロボットにはできない介護の質とは何かということを追求するのみである。そのための知識と技術を高めるためには、「誇り」が必要なのだ。
 昨年、とある有名実業家が、フォロワーが240万人を超えている自身のツイッターで、「介護のような誰でもできる仕事は永久に給料上がりません。いずれロボットに置き換わる」とつぶやいて大きな話題になった。この発言に対し、介護関係者からは強い憤りの声が挙がり、反論も相次いだ。しかしこの発言を、すべて荒唐無稽な意見として無視してよいかと問われれば、僕はそうは思わない。少なくともこの発言を支持する人は、介護は誰でもできるから、報酬も安くて当然だと思っているだろう。ほかにも同じように考える人は日本中にたくさんいるという事実を、僕達は正面から受け止めなければならない。
 誰にでもできるというレベルの介護しかしていない介護事業者があることは事実だ。僕達がいくらそれを介護とは呼ばないと言っても、世間一般の人に、その違いが認められないことにはどうしようもない。
 介護施設の職員による暴力・暴言が、家族によって隠し撮りされる例が過去にも複数あったことを考えると、それが氷山の一角であり、どの介護サービス事業者も似たり寄ったりの状況があるのではないかと疑われるのもやむを得ない。
 もちろん、僕達はそんな氷山とは全く別のところにいるし、そんな状態を許さない立場にあるが、いくら正論を述べても、利用者に向かってタメ口が日常的に使われて、サービスマナーのかけらもない対応が日常とされている職場が多い状況が変わらないのであれば、介護サービス従事者に特別なスキルが必要だという主張はまったく説得力を持たないだろうし、世間の誤解を解くことはできないだろう。よって、介護は誰にでもできる安かろう悪かろうという職業であると決めつける人もいて当然である。
 介護とは、誰が行ってもよいものだ。そうであるがゆえに介護を職業としている僕達には、お金をもらって提供するにふさわしい仕事ぶりが求められており、顧客対応という意識が求められる。そこには専門知識や援助技術というものに加え、ホスピタリティの精神も必要となるはずだ。しかし某実業家の発言は、介護を職業とする人の多くが、そんな専門性とは無縁の素人レベルだろうという指摘でもある。そのことに真正面から反論するためには、素人にはできない高品質の介護サービスが実在し、それが職業として介護サービスを提供する場でのスタンダードになり得ることを証明しなければならない。顧客サービスとしてふさわしい対応と、専門技術と言えるサービスの品質を示さねばならない。そしてそれは、口先だけではなく、実践で示すしかないものだ。介護という職業は、「誰にでもできてロボットに取って代わられる職業ではない」と胸を張ることができなければならない。
 僕達は、「介護なんか誰でもできる」と批評する人々が介護と呼んでいるレベル以上のサービスを提供しなければならない。そのために、人の暮らしを豊かにする実践を目指していかねばならない。僕達は、過去の遺物にすべき介護業界にはびこるいろいろな偏見や、誤った方法論を変える努力を続けながら、本当の意味で、安心と安楽の介護の方法論をつくり出し、それを積み重ねてエビデンスを生み出していく必要がある。某実業家には想像もつかない実践を積み重ねていくことが、僕達の唯一の反論である。そういう意味で、彼の指摘に目くじらを立てるのではなく、見返す実践努力を積み重ねていくことが、僕達にできる唯一の反論だろう。
 幸いにして僕達の目の前には、僕達に信頼を寄せてくださる利用者や家族がおられる。僕達の介護サービスを利用して幸福感を抱いてくださるたくさんの方々がおられる。それらの方の暮らしぶりを変えることができた数多くの実践例がある。その一つひとつを振り返ると、介護という職業はまんざら捨てたものではないと思う。僕達がそこで真剣になって利用者を見つめ、その人たちが求めているもの、必要としていたものを探し出した時に広がる心からの笑顔。それは、ロボットでは感じられないし、ロボットでは引き出せないものではないのだろうか。
 人と変わらない介護動作ができるロボットができたとしても、そのロボットと比べてもなお選択される人の手による介護サービスをつくるために何が必要か。僕達自身が介護サービスを利用しなければならなくなった時、僕達はそこに何を求めるのか。そんなことを本書では問いかけたい。
 介護という職業が、公的保険給付サービスを中心に事業展開している公益性の高い事業であるとしても、そこで生活の糧を得る人々がいる限り、事業の収益性を確保して経営するのは当然である。しかし、そこで目を曇らせて利潤だけを求めるようにならないためには、対人援助サービスとして人の暮らしに深く関わり、誰かの暮らしの質に深く関与するという使命感を持たねばならない。そしてその使命を果たすべく、僕達が真摯に臨む限り、この職業は誰に対しても、誇ることができる職業になり得ると思う。
 そうした介護の誇りを胸に抱き、100年先につながる介護の新しいスタンダードを、この時代につくっていきたいものである。本書において、その道筋を示すことができれば幸いである。

2017年5月

北海道介護福祉道場 あかい花 代表
菊地雅洋

 

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介護の誇り
A5判 192頁
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